研究室訪問 Vol.9 (JIA建築家0501)

「都市や建築の新たな見方・認識」をつくり、次世代に伝えていくこと

 

今回の研究室訪問は、東海大学の吉松研究室である。研究室を持って7年目。プロフェッサーアーキテクトとして社会に何が貢献できるか。吉松秀樹氏は、単に建物をつくるということだけに捉われず、建築家にとって何が「大事な力」なのかを、広い視点で捉えて指導している。教育方針として、「これから社会に出て様々な分野で活躍していく学生たちに、根本となるものの見方とコミュニケーション能力を身に付けてもらいたい。それが社会全体としてよい方向につながっていくのではないか。」と自らの存在を位置づけてきた。今、時代が求めている都市と建築の中間領域に探求の目をあててきた吉松氏は、「解像度」を指標とした建築デザインのほか、ランドスケープ、都市論などを指導。「マクロな視点でものを考え、論理的に構築していける力を備えた人材を育てたい。“建築バカ”にならず、大きな視点で世界に飛び出していってほしい。」さらに、「都市や建築への『新たな見方・認識』を生産できるのは建築家しかいない」と、活躍の場を拓くポジティブな考え方を伝える。

 

ポイントは「言語と記述」能力。『考えることと話すことの訓練の場』を心がけている。

 

東海大学の授業は、これまで吉松氏が経験したことのない200名以上というマスプロ教育。そのなかでいかに独自性を出していけるかを模索してきた。ちょうど教育分野のIT化が始まっていた時期で、その先陣として活躍。現在、大学院生M1が6名、M2が6名、学部のゼミ生が13名。ゼミ旅行はバスを借りるほどの大所帯だが、もう慣れたと笑う。「設計とは建築的言語である」と考え、言語教育としての設計教育を実現するとともに高度情報化社会において全ての結果は『記述』であるとして、「言語能力」と「記述能力」を高めることにポイントを置いてきた。「学生の多い大学は、教育の理念や学生の意識も違う。もちろん設計者も育てたいが、卒業後はハウスメーカーや建設会社など様々な世界に進む。その学生たちに役立つことはなにか。大学は『考えることと話すことを訓練する場』として、自分の考えたことを相手に伝え、アピールしたりディベートするチャンスを与えようと、発表を主体としたプログラムとしている。他大学と比べてプレゼンテーションの時間は多いと思う。社会に出て、人とのつき合い、コミュニケーションをうまく行っていくためにも、自分の考えを100%伝えられることが最も大事である。そして、英語で話せるようになりなさいと言っている。英語ができればインターネットで得られる情報は100倍違う。学生時代に100倍情報を手に入れられる人と日本語だけの人とでは決定的な差が出る。」と説く。吉松氏の教育ビジョンは、様々なところに現れてきている。以前は縦のつながりが少なかったが、卒業設計を大学1〜3年生が手伝ったり、院生とも関係が生まれるなど、学年を超えた協力体制が根づいてきた。他大学の大学院を受験したり、留学する学生も年々増えている。「何より、理解力を深めさせたい。また自分自身、学生たちとコミュニケーションや議論をし、教えるだけではなく、自分の考えをまとめる場ともしたい。大学院をより生産的な場にすべきである。」と思っている。

「解像度」を指標として景観分析をし、新しい建築と都市の関係を見出していく。

 

「学部・大学院を通じて研究室では、都市景観をデジタル指標で把握していくことに取り組んでいる。主に「解像度」という指標を用いて、都市や建築の新たな把握の方法があるのではないかとサーベイを続けている。例えば、一つの景観画像のなかに、異なる解像度の画像を同時に表す『多重解像度画像』という記述方法。画像を圧縮するJPEGなどの概念を用いて、新たな景観認識として記述することができないかというテーマである。最初に行ったのは景観分析で、写真を撮ると全て高解像度に見えるが、私たちの認識上では低解像度で捉えている部分が多いのではないか、というところからスタートした。都市の建物は日々建て替わっているにも関わらず、私たちはそれにあまり気づかない。高解像度な景観として認識しているつもりだが、実は低解像度で都市や建築を見ているのではという視点である。この『景観分析』は都市計画の研究ではなく、先入観がない状態で景観や建築に対する理解をもう一度考え直す作業であり、都市や建築がどのように存在していけばいいのかを考えるための手段としたいと考えた。統計上の好ましい景観として、たとえば緑があって、道が広くて車が少なく、看板もないまち並みがいいという認識がある。しかし、多重解像度画像による「情報量」、つまり解像度で見ていくと、自然の木の葉も高解像度になるが、新宿や渋谷など看板がたくさんあるまちも高解像度であり、両方とも情報量としては高解像度なまちということになる。人は、緑がたくさんある表参道にいても幸せを感じるし、にぎやかな看板のある新宿や渋谷に行っても幸せを感じ、そこに人が集まってくる。しかし一方、同じようなビルが建っている低解像度なまちの大手町や西新宿に行くと違和感があり、非人間的で面白くないといった感覚・認識があったりする。これらは最終的には、多重解像度的にまちを捉えながら、新しい建築のつくり方を考えていくもので、つまり、建築はもっと低解像度でつくっていいのではないかという仮説である。みんなが高解像度で認識していないのに、高解像度でつくる必要性はない。部分的には高解像度も必要だが、全体はもっと低解像度でつくっていい。では、建築を低解像度でつくるとはどういうことなのか、という研究に向かっている。」『多重解像度画像』を用いてファサードにどのような要素を入れたらよいのかを試行錯誤したり、航空写真を画像処理して特異領域の抽出・分析をしたり、建築へのマッピングに生かしてみたりと学生たちは面白い試みを行っている。

「東大の建築学科と都市工学科が分かれてしまったように、今、建築と都市が分離してしまっている。興味としてあるのは、都市と建築をつなぐインターフェースのジャンルと言えるが、そのような活動を、学生と一緒に研究テーマとしていきたいと考えている。学生はバラバラなことをやっているように見えて、通底する意識があり、それが個々のデザイン研究へとつながっていく。自分の足で歩いて自分の目で見て、肌で感じた建築や都市の認識を、これからの具体的な課題へどうつなげるかということに取り組んでもらいたい。」

設計の不透明性を解決していく言語、かたちが収束していくプロセスの構造化を探求

 

吉松氏の建築の道への小さな一歩として印象にあるのは、神戸の小学生時代にインパクトを受けた大阪万博だったという。「社会・まちがどうなっていくのかということに対して様々なアイデアが出ていることを目の当たりにし、実際につくることをイメージしていたかは別として、大きな体感となった。」京都市立芸術大学で1年間彫刻を学んだ後、美術系で建築を学びたいと東京芸術大学に進んだ。当時は吉村順三氏の伝統を受け継いだ流れが主流で、違う視点から都市・建築を見てみたいと、大学院は、信頼していた曽根幸一氏の足跡と同様に東京大学の都市工学科に進む。大谷幸夫氏や渡辺定夫氏などに師事し、その後、都市とアートに強く、その両端の考え方を統合して建築をつくっていた磯崎新氏の思考プロセスに興味を持ち入所。事務所にて3年半、刺激的な時間を過ごす。その頃、磯崎氏は筑波センタービルやロサンゼルス現代美術館などを終えた頃。八束はじめさん、青木淳さん、渡辺真理さん、渡辺誠さんなどそうそうたるメンバーと議論をする機会を得たという。

建築の設計プロセスに強く興味を持ち、徹底して論理を伴ったシステムとしての「構造化」を探求している吉松氏だが、その原点は、「設計が不透明だ」と思ったところから始まる。「いろいろな要件が集約されて出されてくるはずの設計。しかし、ある日突然神がかり的に出てくるスケッチ。そこに理解する言語が必要だと感じた。施主にも説明ができ、スタッフと共有できるものがないかと考え、そこにモデリングへの興味が出てきた。」1999年にJIA新人賞を受賞した「宇土マリーナハウス」は、ウォーターフロントに魅力的な町並みを形成するための骨格づくりを考え、都市デザイン的な視点で提案された、熊本未来国体ヨット会場の管理施設。いくつかの建築を寄せ集めたまちのような施設イメージでつくられている。

「簡便な3Dソフトで、もともとあったヴォリュームを変形していくシステムを考えようとしたのが『連続体』という名前を付けた設計手法である。試行錯誤してやっていくうちにかたちが収束していくプロセスを共有できるのが面白いと思った。『連続体』は、数学的に連続していることを、建築に代入したいと考えたもの。」という。

ダムエリアにおける新たな環境・文化プロジェクトとしての「アースワークプロジェクト」

 

「都市や社会に興味を持って設計をやってきたなかで、30代に公共事業に携われ、主導的な立場にいられたことはとてもいい経験になった。」と吉松氏。1992年から10年ほど関わってきたのは、広島県北東部にある山間地域で展開されてきた「灰塚アースワークプロジェクト」である。谷線に広がる水田と里山に育まれた農業地帯だが、過去、幾多の水害をもたらしたことで、その対策と安定した水道用水の確保ということから、2005年の完成に向けて灰塚ダムの建設が決定していた。ダム湖となる面積は3.54k㎡で、灰塚地区の3つの町(総領・三良坂・吉舎)におよぶ壮大な規模であった。

3町11400人余の人たちにとっては長年培われてきた歴史や文化の継続という点でも重要な問題である。そこでダム建設という大きなインパクトを逆に地域の活性化に結びつけられないかと、建築・芸術・自然・歴史・土木などの人たちが参加して、地域全体を美術や芸術の空間として新しく生き返らせるプロジェクトを立ち上げた。吉松氏は建物だけの提案に留まらず、行政区を越えてダム河川敷全体のエリアを捉え、山や川、大地など自然を題材として展開する活動を提案。「環境美術圏」という新たな言葉に集約されるように、人々の活動を刺激しあう環境づくりを地元の人たちと共に取り組み、自然と生活が調和したシステムづくりを目的として、芸術(アート)をキーワードにしながら、広大な環境全域における大きな学習の場、豊かな文化の形成を目指して進めてきた。「ダムエリア全体のランドスケープデザインを提案した。大きな公園をまちとして使えるようにしようという目的は、今もいい成果として表れている。」と吉松氏。

プロジェクトのひとつ、「三良坂町無縁墓地」は、イギリス・デンマークのar+d賞大賞やイタリアのデダロ・ミノス国際建築賞・l'Arca特別賞などの国際賞を授与されている。水没する無縁仏を慰霊する空間を要望され、『見えることと見えないこと』『建築をアートの狭間』を考えて設計したものだという。

日本固有の都市の魅力をポジティブに捉え、積極的にアピールしていく必要がある。

 

灰塚のプロジェクトで最初にまちの人たちに伝えたことは、「町おこしをするには愛着がいる。誇りに思っていることや自慢に思っていることを探し、それを蓄積してもらった。これは都市論においても大事なことで、ヨーロッパの人たちの考え方は、自分のまちや都市の記憶となって積み重なり、彼らはそれを守ろうと努力している。日本人もかつてはそういう意識が高かった。もっと自分たちのまちや都市に対して愛着が持てたり、誇りに思えたりするものを構造化し、分かりやすいかたちで手に入れなければならないし、建築家もそれを提供していかなければならない。しかし、それを認識する手段が薄い。ヨーロッパでは新しい建物ができると話題になって都市の共通認識となるが、日本の場合は行政も、新聞やテレビのような影響力のあるメディアも取り上げない。まちや都市の認識を高めていく手段をもっと構造化するべきだし、建築家は応援すべきだと思う。例えば、日本、特に東京はより観光化すべきであり、建築家や大学教員がそれらに関与していくことなどを、社会全体としても考える必要がある。」と言う。「ヨーロッパのように都市のイメージを強烈に持って守っていく方法とはまったく違う日本の特質の伝え方があるかもしれない。日本の猥雑なまちをポジティブに捉えていくことはやっていっていいと思う。ヨーロッパ的な感覚できれいなまち並みやインパクトのある記憶に残るような建物や景観を保全していくことも重要なことだが、昔の建物や名所旧跡だけを観光名所とするのではなく、今までそう思われてなかったものを、東京や日本の魅力として新しい視点で見つけ出して積極的に売っていくことをすべきである。それができるのは建築家しかいないと思う。つまり、新しい視点でまちを見たり、建築に新しい魅力やキャッチコピーを見つけられる人種は建築家しかいない。ぼくらの世代がやらなければならないのは、日本人らしい視点でもう一度日本を評価をしてくこと。東京を中心として、日本固有の魅力を拾い上げて評価していく構造を築いていきたいし、大都市東京がニューヨークやパリと違うところを、伝えていくべきだと思う。」今、ランドスケープや都市論として、『都市デザイン理論史』が必要だと、建築家のスタンスから見た都市論の系譜を教えている。「現代の建築家たちの発言や考えを知るために、建築や都市の考え方のベースを理解する必要がある。歴史的視点を持ちながら、今、21世紀に何を考えなければならないのかを考えていくことが大事だと思っている。学科の組み立て方もあると思うが、今そういう議論が少ない。建築家の都市論や、都市と建築をつなぐ話をし、領域をつなぐ可能性を追求していきたい。」

「新しい都市の見方・建築の見方」を伝えていくことが、大学にいる教師の務めである。

 

「メタボリズムの研究をした時、確かに1950年代後半から1970年代は、モチベーションの高さが今と違っていたと感じた。社会とどうやって結ぶのかということに第一義的な目的があって、その結果として建築の提案があった。社会のなかにおける建築家の役割を考えるとき、頭ではわかっていて、勉強すればするほど身にしみて感じることではあるが、意識として全体的に欠けている部分だと思う。プロフェッサーアーキテクトとして何ができるか。まず第一に“モチベーションを高めること”。その先にデザインや思考が出てくる。少し後押しをすることで、精神と思考のバランスが取れ、優れた結果へとつながっていくはずである。都市や建築の見方を理解し、まちの構成やその良し悪しなどを考えて歩けるようになると、社会に出てミニ開発などをしていく際にも、何か変わってくるのではないかと期待している。建築学科の学生はただつくることにだけエネルギーを注いでいるが、最終的に出来上がったものがどういう風に知覚されるのかを考えろということを常に言っている。その建築がどのように認識をされていくのか、その場所にその建築が建っていることがどんな意味があるのか、という意識を持っていてほしい。建築雑誌においても、どういう環境のなかにあるのか、少し引いたショットがほしいと思う。企画から入った『建築MAP東京』が10年間売れ続けたのは、一般の人たちの評価が得られたからだと思うが、同様のことがもっと社会に広がっていくといい。それも、まちのなかに喜びを見出していく構造化の試みの一つだと思う。重要なのは、『建築や都市の新しい見方や認識の仕方をつくり出せるのが建築家しかいない。つまり、新しい見方がないと、新しいものはつくれない』ということである。新しい見方を生産する必要性・義務を、大学にいる建築家は考えるべきであるし、新しい見方を学生に伝えれば、その世代なりに社会に出て何か生産をしてくれると考えている。『新しい都市の見方・建築の見方』を教え、伝えていくことが大学にいる教師の一つの社会的使命だと捉えている。」